- 家紋 三つ盛二重亀甲花菱
- 兜 愛の前立など
- 鎧 胴と腹部を分け実践での機能を重視
愛と義に生きた心優しき男
「愛」の兜がトレードマークの直江兼続。樋口与六と呼ばれていた頃、のちの主君、上杉景勝の母で上杉謙信の姉でもあった、仙せん洞とう(桃)院が利発で容姿端麗なその少年に魅力を感じ、景勝を支えるのにふさわしい人物として、ふたりを引き合わせたといわれる。景勝と兼続はともに雲洞庵で学び、高い教養を身につけた。また謙信にも格別に目をかけられ、「義」と「仁愛」の精神を受け継いでいく。
謙信亡きあとの家督争い、「御館の乱」で景勝が窮地に陥ると、兼続の機転で長年の宿敵、甲斐・武田氏と同盟を結び、景勝を劇的な勝利へと導いた。これを機に兼続は若年で執政に抜擢される。織田信長の死後、景勝は豊臣秀吉の臣従になり、秀吉も「五大老」として景勝を優遇する。兼続のことも高く評価し、直臣に引き抜こうと、会津への国替えの際は、兼続に米沢30万石を提示した話も伝わる。もっとも、「景勝こそ、わが主君」と兼続は固辞したという。優れた政治の能力と義を貫く誠実な人柄は多くの人を魅了した。石田三成や前田慶次とは厚い友情で結ばれ、上杉家の人質としてやって来た、真田幸村にも慕われ信奉されている。
秀吉の死後、虎視眈眈と天下取りのチャンスを窺っていた徳川家康が動き出す。移封後の会津で、兼続たちが築城や道の整備をしていることに難癖をつけ、上杉謀反の嫌疑をかけた詰問状を送りつけてきたのだ。すかさず、兼続は痛烈に家康を皮肉った「直江状」を叩きつける。激怒した家康が上杉討伐のため出陣し、謀ったように三成が挙兵。家康はすぐさま大阪へ引き返し、上杉軍が待ち受ける会津ではなく、三成率いる関ヶ原へと向かった。
戦後、敗北した西軍を味方した上杉家には試練が訪れるが、兼続は上杉家存続のため、家康に謝罪し、奔走する。30万石の大減封になっても、家臣をリストラすることなく、倹約に務め、産業を興し、ここでも兼続の手腕は遺憾なく発揮された。今も米沢のそこかしこに、兼続が尽力した形跡が残る。

ゆかりの地宮坂考古館[みやさかこうこかん]
甲冑や火縄銃が圧巻
宮坂善助前館長が80年余りかけて個人で集めた、郷土や旧米沢藩ゆかりの資料を700点以上所蔵、展示している。56にも及ぶ甲冑には上杉景勝や前田慶次所用など貴重なものばかり。上杉の雷筒と恐れられた火縄銃も20以上揃う。
DATA
住所 山形県米沢市東1-2-24
TEL 0238-23-8530
営業園時間 10:00~17:00(10~3月は~ 16:00)
料金 大人300円、高大生200円、小中学生100円
休館日 (月、祝日の場合は翌日)
P 10(無料)
交通 (電車)JR山形新幹線米沢駅より徒歩約5分 (車)東北自動車道福島飯坂ICより国道13号線経由約40km
URL http://www.j-1.net/j-1/kikaku/museum/miya/miya.htm

旧米沢藩の資料が散逸するのを惜しみ、個人で収集したのがはじまり

10数kgの重量
ゆかりの地五色温泉宗川旅館[ごしきおんせん そうかわおんせん]
兼続の子供が病を治癒
開湯約1300年の歴史があり、吾妻山系約900mの標高に湧く温泉。兼続の嫡子、景明が病気になった際、ここで湯治させ快復したと伝えられ、かつては上杉家の守り湯として利用された。日帰り湯は露天風呂のみ。
DATA
住所 山形県米沢市板谷498
TEL 0238-34-2511
IN14:00 OUT10:00(日帰り湯は10~3月のみ10:00~ 16:00)
定休日 不定
料金 1泊2食付 中学生以上1万650円~、休前日 1万3800円~
P 50(無料)
交通 JR奥羽本線板谷駅より送迎車で約20分(要予約) (車)東北自動車道福島飯坂ICより国道13号線経由約25km

眺望抜群な展望露天風呂

秋は紅葉が見事
この人が“彼”を演じてました!
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