
1991年1月にリリースしたシングル
『START』の頃
――まずは今回の再結成の経緯から教えてもらえますか?
「ドラムの小林雅之が“La.mamaの25周年、ELLの30周年の記念イベントがあるんだけど、そこにジュンスカで出ないか?”って言い出したのがきっかけですね。最初はね、ファミレスで会ったんですよ。小林に呼び出されて、“(寺岡)呼人には承諾を取ったし、森(純太)にもこれから言おうと思ってるんだけど、宮田はどう?”って。それが確か去年の初めだったんだけど、俺としては“呼人と森君がOKだったら、いいよ”っていう感じで」
――ひとりでも欠けてたら、実現しなかった?
「うん。誤解されないように言っておきたいのは、それは“(オリジナル・メンバーである)伊藤毅じゃダメ”ってことじゃないよ。そうじゃなくて、『全部このままで』『ひとつ抱きしめて』『歩いていこう』を作ったメンバーでやるのが、ファンにとってもいちばんいいだろうと思ったんです」
――小林さんが言い出すまで、再結成を考えたことはなかった?
「ないです。もともと過去を振り返らないというか、いまはジェット機っていうバンドをやってるわけだから。ただ、昔を否定してるわけではないんですよ。アコギ1本のソロライブではジュンスカの歌をガンガン歌ってるし、たとえばカラオケに行って、“ジュンスカ歌ってよ”って言われたら、ぜんぜん歌っちゃうので」
――では、La.mamaとELLのイベントライブが決まった段階で、2008年のツアーのことも考えてました?
「いや、俺は考えてなかったね。あくまでもLa.mamaとELLのイベントだけのつもりだったから。でも、やってみたら楽しかったんだよね。他のメンバーも“けっこういいね”って思ったみたいで、そこからどんどん話が盛り上っていって。要するにね、人が人を呼んだわけじゃないですか。小林が僕らを集めて、お客さんがライブハウスに来てくれて。そこでみんなの笑顔を見てるとね、“これはもう1回、ちゃんとやったほうがいいな”って」

1988年、アルバム『ひとつ抱きしめて』の頃
――そこでライブハウス・ツアーをやろうって発想するところが、ジュンスカらしいですよね。
「いろんな方法があったと思うんですよ、確かに。でかいホールでドカンとやるっていうやり方もあっただろうし。でも、僕らの気持ちとしては、4人でいっしょに車に乗って、小さいライブハウスを回りたかったんですよね。アマチュアな感じっていうのかな、そういう感覚を残したまま、プロとして活動できるっていうのがいちばん楽しいんですよ。もちろん、実際の行程は大変なんですけどね。小林なんて、ひとりでぜんぶ運転してたんだから。7000kmだったかな、確か」
――大変ですねえ。
「でもね、(MCで)“こいつ、大変なんだよ”とかって言うと、小林は“そんなふうに言うな”って言うんだよね。俺は好きで運転してるんだからって。それはね、みんなにも共通してることだと思うんですよ。楽しそうだな、って思ってライブハウス・ツアーを企画して、やっぱり楽しかったっていう(笑)」
――メンバー4人の空気も……。
「前よりも良いですよ(笑)。子供でしたからね、昔は。お互いに突っ張って、口もきかない、とかね。あと、とにかくワーッとなってたから、周りもピリピリしてたんですよね」
――90年代の前半、ライブの数がとんでもないことになってましたからね。年間100本は当たり前っていう。
「あれは、ちょっと良くなかったもしれない(笑)。競技をやってるわけじゃないんだから、たくさんやるってこと自体にはそれほど意味ないから。今回のツアーはね、2デイズ以上はやってないんですよ。3日以上続けると、どうしても疲れてきちゃうし、質が落ちるでしょ。常に質のいいライブをやるっていうのが大事ですから」
――呼人さんが「宮田君はどのライブでも、コンディションをしっかり整えてる。あれはすごい」って言ってました。叫んでるようなテンションを保ったまま、あのメロディを歌うのはかなり負担が大きいのでは?
「でも、声が枯れたこともないんだよね。自慢するわけじゃないんだけど、努力してないんですよ。タバコも40歳まで吸ってたし、酒とかもロックでガンガン飲んでるし」
――ジャンプの高さも、10年前と変わってなくて。
「あれも練習してないよ(笑)。あとで映像を見て、“お、けっこう飛べてるじゃん”っていう」
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