Myway Club 連載記事


マムスガーデンリゾートよりナマステ
第1回 ヒマラヤンリゾート・ポカラに一目ぼれ
宮本ちかこ













 1995年に会社を辞めた私が、アジア放浪1ヵ月の旅の中で出合った街、ポカラ。雄大で美しいヒマラヤと豊かな自然に囲まれたポカラは東京でのOL生活で挫折した私にさえも優しかった。そんなポカラの街に「Mum's Garden Resort」はあります。

湖とヒマラヤの街、ポカラ

 私の小さな宿「Mum's Garden Resort」はポカラという街にあります。ポカラといきなり言われてもぴんとくる方は少ないかもしれませんね。ここは、チベットとインドに挟まれたネパール王国。ポカラはヒマラヤを北に望み、インドへと続く平原を南にもつこの小さなの国の第2の都市です。中世の城や寺などの文化遺産が首都カトマンズが魅力なら、ポカラの魅力は間近にせまるヒマラヤ展望と緑と湖というのどかな自然です。あちこちに見られるバナナの木、緑にポイントをそえるブーゲンビリアやハイビスカスの赤い花。ゆっくりと車道をゆく水牛、そんな風景の向こうに白く輝くヒマラヤ。私は勝手に、愛しいポカラを、優しきヒマラヤンリゾートと名付けています。

 ヒマラヤ山脈の中でも8,000m級を誇るアンナプルナ山群。その美しい響きの名前は、豊穰の女神、アンナプルナに由来しています。その麓、アンナプルナ・トレッキングエリアの出発点でもあるポカラは、トレッカーの集まる街として有名です。中でもレイクサイドと呼ばれる湖沿いのエリアは、ツーリストのための宿やレストランが密集、通りには土産物屋にまじり、トッレキング用品の店が並び、ツーリストで賑わいます。「Mum's Garden Resort」はそんなレイクサイドのメインストリートから数分奥に入った静かな場所にあります。聞こえるのは鳥のさえずりや、大きな木の葉が風に揺れる音。ここは時間がのんびり流れるところ。メインストリートの喧騒もここには届きません。

 ところで、よく友人から「ポカラってとても寒いのでしょう?」(彼女は多分ヒマラヤの雪をイメージしてそういうのでしょう)とか、「ポカラってすごく暑いのでしょう?」(インドをイメージされているのでしょう)とか質問されます。日本での知名度は今ひとつのポカラですから仕方ないのですが、実際のところ、そう暑くも寒くもありません。一番暑い時期の最高気温も30度から31度程度。冬でも晴れていれば昼間は20度くらいです。冬の一番寒い時期12月から1月にかけても5度を切ることはないくらいです。


お姫さまトレッカー、アンナプルナにひとめぼれ

 さて、私がそのポカラを初めて訪れたのは1995年のこと。その頃の私は東京でアパート暮らしをしながらしゃかりきに働いていました。そして人間関係やストレスでとても消耗していました。当時28才。格好つけていうと、30歳を前に人生を見つめ直すため、正直にいうと現実から逃げ出すため、会社を辞めてアジア周遊の旅に出ました。旅先の一つの候補としてネパールがあったのは、本当に単なる偶然でした。

 とにもかくも1995年のポカラ、そこから私は生まれて初めてのトレッキングに出発しました。とはいえ、山登りの経験など何もない、普段から運動不足の体力ない私。ガイドとポーターに支えられてのお姫さまトレッキングなのですが、その山道のきついこと。
 今日はあの村で泊まりましょうとガイドが指さす先を見ると、遥か遠くに小さな小さな村。ああ、あんなに遠くまで歩けるものだろうかと、笑いはじめたひざをかかえて、はあはあと息を切らせて歩きました。そうやって一歩一歩自分の足で歩いているうちに、頭の中は真っ白に。迷いや雑念が消えていき、体が汗をかくことの気持ち良さを思いだす感覚。ただただ歩いて、食べて、寝て、それだけの5日間なのですが、村から村を結ぶトレッキング街道に、村人の素朴な生活をかいま見、ヒマラヤに見惚れたあの日々。

 あそこで私は頑張る勇気をわけ与えられたような気がします。そう、美しいアンナプルナの山々に。あれからもう8年。あの時アンナプルナの美しい姿は私を勇気づけるとともに、ちょっとした魔法をいたずらにかけたのだとしか思えません。アンナプルナの見えるポカラに住みたい!あの時の思いきり(思い込み?)とパワーは我ながら尋常ではありませんでしたもの。今ではよくあんな向こう見ずなことができたと、自分のことながらあきれてしまうくらいです。


30歳にして、ネパールに移住する

 ポカラに住む、そう決めてからの私の行動はかなりスピード感あふれたものでしたが、同時に多少強引でもありました。ポカラでホテルを経営したかったわけでなく、ポカラに住むということが先行していたからです。住むためにはビザがいる、そのビザのためのてっとり早い方法はネパール人と結婚するか、ネパールの大学生になるか、現地法人を自分でつくるかのいずれか。そして消去法で残ったのが現地法人を自分でつくるという方法だったのです。住むためにはビザもいるけれど、生活費だって必要なわけだから、自分で投資して、自分で稼ぐというのが一番妥当な方法のように当時は思えたのでした。(今では一番無謀な道を選んだと反省しておりますが)

 しかし、当時(多分、現在もだと思うのですが)外国人が投資できるビジネスはかなり限られたものでした。観光業においてはホテル業のみしか認められていなかったし、あとは工場のようなかなり大掛かりな資本と技術が必要なものばかり。東京で会社員だった私に工場の知識などあるわけもなく、私の強みといえば外国人であるということだけ。そんなわけでまたまた消去法で残ったのがホテルだったのです。

 こんな消極的な選択でホテル業に手を染めることになった私は1997年、住んでいたアパートを引き払い、家具と家電のほとんどを処分してネパールに移住しました。ちょうど30歳のことでした。30歳の春、新たな人生の仕切り直しを企てたネパール移住計画。さてどうなることやら。でもその時の私は、人生最大の希望に満ちてネパールの地を踏んだのでした。


(文:Mum's Garden Resortオーナー/宮本ちかこ)