特別番組収録中の様子(上)
土屋浩氏(左)と大抜卓人氏
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4/4(金)に『BOφWY LAST GIGS PERFECT』と題してFM802で放送された特別番組をレポート。取材の裏側から、番組で放送できなかった部分まで細かくお伝えします。
@ぴあ独占の完全レポート!ぜひチェックを!! DJ=大抜卓人
【BOφWY創成期〜80s】
大抜:さてこの時間なんですが、ゲストをお迎えしております。BOφWYのすべてを知る男とでも言いましょうか…BLUE FILMというバンドで布袋寅泰さんと共に活動し、BOφWYのマネージャーとしてバンドを支え、現在は音楽プロデューサーとして活躍中の、土屋浩さんです。どうぞよろしくお願い致します! BOφWYのマネージャーをされてた方って聞いて、ちょっと怖い方かなと想像してたりもしたんですが、非常に親しみやすい方っていう。
土屋:それはたぶん、呑みながら夜中の2時越えてないからだと思いますよ(笑)
大抜:(爆笑)。土屋さんは実は2代目のマネージャーになるんですよね?
土屋:BOφWYが1stアルバムを出した頃、もちろん業界のルールは今と変わんないんですけど、とにかくロックがビジネスになっていなくて、所属していた事務所とメンバーもうまくいってなくて。で、初代のマネージャーは後々『INSTANT LOVE』(※1)とか『BEAT EMOTION』(※2)のデザイナーになっていくんですけど
大抜:カッツ三宅(※3)さんですね。
土屋:当時僕は東京の高円寺でリハーサルスタジオをやってたんですよ。そこに氷室とか布袋とかが「安く使わせて」って来てね。でも古くからの友達で、仲間ですからね。「それってタダでってことでしょ?」って(笑)。三宅氏はデザイナーになりたいしってところで、そのままスタジオが事務所になっちゃったんですよ
大抜:へ〜!
土屋:ホントにひどい話で(笑)。全然ミュージック・ビジネスのルールもわからなかったけど、でも連中といると面白かった。連中からのリクエストは、Tシャツいっぱい売って、ライブ満員にしてっていうだけ(笑)。そりゃおもしろそうよねみたいな(笑)。何も知らなかったから出来たんだと思いますよ
大抜:もう、とにかく手探りで?
土屋:いや、探んない探んない。ぶち抜いていくだけ(笑)。ただやりたいことやって。それが迷惑だってわかんないんだもん(笑)。ルールなんて知らないから
大抜:セオリーがまずない、っていうことですもんね。
土屋:道路交通法知らないでハンドル握ってるようなもんですから(笑)、でもそれが許されたくらい、まだいい意味でロックっていうのが世間からハジかれてる、音楽業界からはビジネスにならないって思われてたから。逆にやりたいことやっても許される時期だったんですよね。ホントに時代背景的にいい時代だったなと思うんです。80sっていうのは
【1224〜解散宣言】
大抜:土屋さんがマネージャーになった'83年から解散に至るまで、激動の約6年という月日だったわけですよね?BOφWYの“ LAST GIGS”には数々の伝説がありますが、チケット争奪戦によって東京・文京区の電話回線がパンクしたとか、あと2日分のチケットの10万枚が10分でソールドアウトしたなどなど、いろんな事実が語り継がれてます。BOφWYはカットアウトの美学というか、ホントに人気絶頂期に突然の解散で。それが発表された1987年の12月24日、渋谷公会堂の氷室京介さんのマイクパフォーマンス…やっぱ衝撃でしたよね。
土屋:解散自体は、言ってしまえばBOφWYとしてやれることを精一杯やる、完成形みたいなものが出来たら辞めようって話はよくしてたんで。正直『JUST A HERO』(※4)が出来上がった時点で、解散っていう話は実際出てるんですね。ずっとレコーディング環境が恵まれていないところから、ようやくちゃんとしたシステムで『JUST A HERO』が作れたとき、ものすごい満足感だったんですよ。これ以上の作品は出せない、みたいな。でも、そこからたぶん自分たちのBOφWYの“使命としての終焉”みたいなものを、個々それぞれが考えてたと思うんですね。いろんな場面でメンバーそれぞれと話もしたし。だけどヒムロックがどこで解散宣言するかっていうのは、毎回一発こっきりのライブだから、取り決めてなかったんですよ。だからホントに12月24日の当日に、スタッフ全員に初めて「解散宣言するよ」って話をして
大抜:なんとなく『PSYCHOPATH』(※5)の辺りで、当時僕の友達同士でも噂がありました。「BOφWYが解散するんじゃないか?」って。実際そうだったときはすごい衝撃でしたし。
土屋:それは敢えて言わせてもらえば、その方向に向けてべクトルを仕込んでいた僕の作戦にひっかかってますね。ありがとうございました(笑)
大抜:そうだったんですか! まんまとひっかかってって(笑)。
土屋:やっぱり、ひとつのストーリーをきちんと作ろうっていうね。でもそれはあっても場所が東京ドームっていうのはまだ決まっていなかったし。ホントにいろんなタイミングが味方してくれたと思います。けど、一番大事なことは氷室が決めること。氷室が唯一マイクというものを、言葉というものを有しているので。だから1224では言わないのかな?って一瞬思ったこともあったし

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大抜:そうなんですか!?
土屋:あと、よく聞くと解散って言葉は使ってないんだよね。「解散します」とは言ってないの
大抜:…ホントですね…「6年間やってきましたけど」っていうニュアンスでしたよね!? |
土屋:4人それぞれの別の道を行くとは言ってるんですけど、解散するとは言ってないんですよね。だからすごく深い深い…スタッフやってる俺らには分からないバンドへの思いっていうのが、メンバーそれぞれにはあったと思うんですよ。『1224』(※6)ってホントにフィルムで撮ってるから、現像しないと見れないわけです。メンバーも俺たちも、あれを2001年に作品化する…いわゆるテープを整理して、フィルムを現像して初めて、あの日の渋谷公会堂を見れたんですよね。逆に言うとみんな見たくなかったのかもしれない。あの映像がどっか痛くて。何年経ってもね。だからまず俺たちがメンバーも含めて見いっちゃいましたよ。すげぇなこのバンド、なんだこの緊張感って
【'88年4月4、5日〜LAST GIGS】
大抜:そして今から20年前の4月4、5日になりますけども、“LAST GIGS”が行われて。そのときの本番前のテンションってどんな感じだったか覚えてますか?
土屋:よく「再結成しないんですか?」って聞かれるんですけど、俺たちにしてみると、4月の4、5日がもう再結成だったんですよね。氷室もそれは“早すぎる同窓会”って言い方しましたけど。例えばツアー回ってても「愛してるぜ、またな!」で氷室は終わるんです。テンション最高になっちゃうから(笑)。でも、今回は“また”はないわけですよ。そういうメンバーの緊張感と、なんとなく察してくるオーディエンスの緊張感みたいなものが12月24日にはありましたよね。でも4月4、5日は、それが全部解放された後だから。だからね、“LAST GIGS”は、ホントにロックバンドとしての反体制の十字架…BOφWYが敢えて選んだそれを全部失くしてますよね。もう自分たちのパフォーマンスとか、オーディエンスとのキャッチボールとか…悪い意味じゃなくて緊張感がないの。最高に楽しんでやる、最後に燃え尽きてやるみたいなね。“別れ”っていうのはネガティブなことなんだけど、次に向けて何かをやっていけるっていうこと、ホントに応援してくれたファンと、大事な仲間たちとメンバーと、最高のパーティーが出来るっていうポジティブが、うまく化学反応を起こしてるっていうかね。ライブバンドとして最高のステージだったんじゃないかと思いますね
大抜:それを傍から見ていて土屋さんにはどういう風に写ってました?
土屋:俺はいっしょになって楽しんでましたね
大抜:感傷的にはならず?
土屋:うん、そういうのはなかった。客席をずーっと回ってたんですけど、そりゃ涙流してた人ももちろんいますけど、笑顔がありましたね。“サンキューBOφWY!”とか、“これからそれぞれいっしょに頑張ろう”っていうね。あと嘘だと思われるかもしれないんですけど、あの日はテレビとかラジオとか、マスメディアがほとんど入ってないんです |
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大抜:ほぉ〜。
土屋:BOφWYってそういうスタイルだったんですよ。ライブハウスのときからまずオーディエンスとライブを作ってきてるから。どんなエライ評論家の先生が来ても、チケット買ってくんきゃ入れないんですから(笑)
大抜:洋楽的なアプローチというか。
土屋:ある意味そうかもしれないですね
大抜:東京ドームはホントに全国から入り切れなかった人、見たくても見れなかった人がたくさんいたわけじゃないですか? そこで土屋さんのファン思いのエピソードのひとつに、“LAST GIGS”が4月4、5日にあって、そのライブ盤を翌日の6日に出そうなんていう(笑)。
土屋:出せっこないんですけどね(笑)。とにかく一番早く出したかったんですよ。今はオールスタンディング1000人クラスのライブハウスが全国にあるけど、当時はないわけですよ。メンバーのテンションも元々一夜限り一発っていうメンタルできてるから、ツアーはできない。そこに東京ドームっていういわゆるBOφWY好みの、初めてやれる場所があったんで、東京ドームが2DAYS実現したんですよね。でもやっぱり全国の人には見せられないわけじゃないですか? 結局一番早く出せたのが1ヵ月後の5月3日(※7)だったんです。当時のレコード会社のスタッフもよくやってくれたと思うよね
【“LAST GIGS” COMPLETE】
土屋:いつ出すいつ出すっていうのはあったんですけど、やっぱり20年ってひとつの節目じゃないですか? ここで皆さんに我々として“COMPLETE=完全版”と呼べるものはやっぱ出しておこうと
大抜:この『“LAST GIGS” COMPLETE』は、アンコールを含む未発表曲を11曲収録してますから改めて楽しめますし、MCまで再現されてます。土屋さん的に印象に残ってる言葉とかシーンとかはありますか?
土屋:全部さらけ出すのは“記録”じゃない? “記録”じゃなくて“作品”を俺たちはメンバーときちんと詰めて出したかった。この『“LAST GIGS” COMPLETE』は、あの4月の4、5日がきちんと作品としてまとめられているし、僕らの思うみんなに届けたい2日間のドキュメントっていうものが、120%形にできたんじゃないかな。当時のことを少しでも伝えたくて、ファンクラブの会報(※8)も全部入れ込んだしね。あとね、俺は氷室がいい意味で抜けてるんだなって思った。実はけっこう彼も面白いんですよ。お客さんが少なかったライブハウス時代は、“どうやってみんなを盛り上げよう?”ってやってきたわけじゃない? 東京ドームでやったからこそできるMCでしたね。台本なんかないですから、ステージの上に。俺らはPA席にいたんですけど、笑っちゃいましたね
大抜:メンバー紹介のことですよね?(笑)
土屋:あのシーンはけっこうイカしてますよ。これは見てのお楽しみってとこでもありますけどね(笑)
大抜:氷室さんと布袋さんの2人の掛け合いなんかも、見てると鳥肌立ちますね。
土屋:動くフォーメーションの練習とかも、一回もしたことないんですよ |
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大抜:そうなんですね? リハーサルってどういう感じでやってるんですか? スタジオに入ってただタイトに音を奏でるだけ?
土屋:音を奏でるというか、音をぶっ叩く(笑)。ライブで盛り上げる箇所も、何小節伸ばすとかも全然決めてなかったですね。だから松井とまこっちゃんと話すと「氷室と布袋はズルい」って言うからね。だってリズム隊はずーっと叩きまくってるし、弾きまくってるわけじゃん?(笑) 氷室と布袋はファンを煽ればいいだけだから。「すげぇ疲れるんだ」っていつも言ってましたから(笑)。リズム隊は休みないですから

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大抜:松井さんなんか全然動かないですよね。途中で1回氷室さんが呼びに来ますよね?「前行こうぜ」みたいな感じで。でもニヤッと笑って行かないんですよね。そこはやっぱ職人ですね。
土屋:あのスタイルだと“動けない”と思いますよ。だってホントにダウンピッキング(※9)しかしないんだから。ライブハウス時代は腱鞘炎とかスゴかったですもん。空調にしても何にしても、毎回必ずいい環境ではないわけじゃないですか? そこで曲は本番のほうが速くなっちゃうから、終わるともうボロボロだったもん、4人とも。全力疾走でなんでマラソンしてんの?みたいな感じでしたけどね
大抜:新宿LOFT(※10)のときとか、汗の蒸気が上に回って、上から雫が落ちてくるって言われてましたもんね。
土屋:そうそう(笑) |
大抜:土屋さんはずっとPA席でライブを見ていたんですか?
土屋:どっちかって言うと俺はいつもステージよりもお客さんのことばっかり見てたから、東京ドームもグルグル回ってましたね。本編が終わると楽屋に「お疲れ」って言いに行くわけですけど、ドームは広くてそりゃ大変でしたよ(笑)。すっごい遠いんだもん、ステージ。楽屋はさらにその裏だから
大抜:現在もそれぞれ音楽シーンで活躍する4人ですけども、土屋さんから見て変わったなっていうところはありますか?
土屋:根本は変わってないんじゃないかな? もちろんスキルとかテクニックだったりは向上してるけど、トライしようとする気持ち、4人にそれぞれ元々あったものっていうのは、ホントに変わってないと思う。変化することが自分であるって考えた人間もいるし、エキスパートというか、ステージに立ったときに自分がナンバーワンでいたいって思うやつはそのまんまだし。まこっちゃんなんかあの年になって和太鼓始めましたからね。すげぇなって
【代表曲〜IMAGE DOWN/NO.NEW YORK】
大抜:『IMAGE DOWN』と『NO.NEW YORK』(※11)は、昔からずっとライブでは欠かさずやってた曲ですよね?
土屋:そうですね。イベントも含めてほとんどのステージでやってますね。やっぱ新宿LOFTで10人15人しかお客さんがいないときから大切にしてきてるナンバーだから。逆に言うと何万人かかってきても勝てる自信がある曲だと思うんだよね。メンバー的にも。これで嫌われるんだったらいいよ別にみたいな。外せない曲でしたよね
大抜:毎回やってるだけに、土屋さんから見たら今日のBOφWYは調子がいいとか悪いとか、基準になる曲でもあるんじゃないかなと思いますけど。
土屋:そういう意味で言ったら打率高かったですよこの人たち。やっぱ…スゴかったんだと思う。テクニックとかもあるのかもしれないけど、毎回のテンションというか。さっきも言いましたけど、世の中的にロックがビジネスにならない不遇な時代だから、ライブでしか自分たちを知らしめる方法がない。そんな中「すげえバンドがいるよ」って嗅ぎつけて来てくれた人には、最高のライブで返すしかないじゃないですか? 今は巨大なイベントもいっぱいありますけど、当時はフェスなんて素敵なものもない時代で。そんな中でも、イベントに出られる場合とかには、BOφWYは常に「トップバッターで出させてくれ」ってお願いしてましたね
大抜:そうなんですか!?
土屋:最後の解散の年以外は、BOφWYの出番はトップに限りなく近いんですよ。もう昔から初めのインパクト勝負って考えてた気はしますね。でもやっぱ最後の年はね、トリでって言われたんでしましたけど。当時RC SUCCESSION(※12)さんとかとよく一緒になったんで、ちゃんと先輩にはおことわりに行って。解散するって誰も知らないからね。いろいろ大変でしたよね
【BOφWY伝説トリビア〜関西でのエピソード】
大抜:ここでですね、土屋さんだからこそ聞けるBOφWYのトリビアというか、いろんな伝説をリストアップして参りましたんで。これは本当なのか?ということを検証して頂きたいと思います。BOφWY伝説の数々、紹介してきましょう。まずはこれを!
★『幻のデビューシングル』
レコード会社を東芝EMI(※現EMI MUSIC JAPAN)に移籍後のデビューシングルとして『Dreamin’』を考えていたが、レコード会社から「ラブソングじゃないから」とダメ出しをくらったらしい。『ホンキー・トンキー・クレイジー』は、それまでボツにしてきた曲のサビを繋いで出来た曲らしい。 |
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大抜:BOφWYのデビューシングルは『ホンキー・トンキー・クレイジー』(※13)だったわけですが、実は他にも候補があって。それは『Dreamin'』(※14)だった?
土屋:候補って言うかね、『Dreamin’』をシングルにしたかったというか、なるだろうなってメンバーも僕らも思っていて。レコード会社に「『Dreamin’』をシングルでいきたいんですけど」って言ったら、初めてダメだって言われたんですよ。でもそう言われると負けず嫌いなわけですから、みんな(笑)。当時、氷室と布袋の曲作りのペースがすごかったからストックがたくさんあって。書き下ろした曲の中で「サビはいいんだけどなぁ」ってそれぞれの中でチェックしてあった曲の、そのサビだけを後からくっつけたんですよ。だからこの曲はクレジットが作詞:氷室京介/作曲:布袋寅泰じゃなくて、作詞・作曲:BOφWYなんですよね。あと、はじめはライブで演奏出来なかったんですよ
大抜:えっ?
土屋:急遽レコーディング先のベルリンで完成させてるから、帰国して初めての渋谷公会堂では、デビューシングルなのに演奏してないんです
大抜:そうなんですか!? |
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土屋:オンステージでバッチリやれるだけの成熟度がまだなくて。最終的にはアンコールが終わって、客出しのときにSEでかけたんです。レコード会社の人には「ライブが終わってアンコール!って会場がなってるときにかけたほうが目立ちますよ!」って言ってごまかしてね(笑)
大抜:そんな裏エピソードがあったわけですね(笑)。
★『世にも不思議なギャラ』
デビューして間もない頃、九州・佐賀県で3万人規模のコンサートがある! という話を聞いて、出演するために現地へ行ったところ、それは『佐賀・県民の森イベント』と題された夏祭りで、お客さんは老人と子供ばかり。ギャラは村で収穫されたナスなどの野菜や焼酎であった。 |
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土屋:あーっ…(笑)
大抜:これホントなんですか!?
土屋:ホントですね(笑)
大抜:それも新宿LOFTのライブを終えたそのままの足で行ったら、実はこれだったっていう?
土屋:LOFTのね、紹介だったの。いい時代だよね(笑)。九州ってね、今もそうですけど、当時ARBとかルースターズ、シーナ&ザ・ロケッツ(※15)もそうだし、やっぱ東京から見ても素敵なバンドが多かったんですよ。だからけっこうリキ入れて行ったんですよ。車でね、それこそギュウギュウ詰めで22時間とかかけて行って
大抜:で、着いたら夏祭りだったと?(笑)
土屋:すっごく山の素敵なところでね(笑)。おじいちゃんとおばあちゃんがギャラとして野菜くれるんですけど(笑)。でも、何か文句言えなくてね。まこっちゃんに「なんでお金でもらわないの?」って言われて、ちょっと言いづらくって今回はって(笑)。でも実は後でもう1回取りに行ったんですよ。そしたら今度は焼酎くれて(笑)
大抜:(爆笑)
土屋:それでもうチキショーもう勘弁してやるか!みたいな感じになってね。ギャラは野菜と焼酎だったんですね(笑)。デカかったですよ、野菜

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大抜:メンバーは何て言ってたんですか?
土屋:しょーがねーなぁもうって(笑)。でも、だけどもっとしょーがないのは、当時車にクーラーが付いてなくて。光を反射させれば暑くないだろうってアルミをみんなで車に貼り付けて走ったりして努力したんですけど、ホントに申し訳ないことしちゃったんですけど、結局東京着く前に野菜が腐っちゃいました(笑)
大抜:(爆笑) |
土屋:今バンドやってる方がうらやましいなと思うのは、漫画喫茶とか安く泊まれるとこがいっぱいあるじゃないですか? 当時はなかったですからね
大抜:関西でのライブのときはどうしてたんですか?
土屋:京都の外国人が長期滞在するようなところ…当時でね1泊1人何百円ぐらいのとこがあったんですよ
大抜:いわゆるバックパッカーが泊まるような感じですね?
土屋:そうそう。新京極の傍に六角ハウスがあったんですけど、そこに泊まってましたね。今は素敵なマンションになっちゃってますけど。2段ベッドにそれこそメンバー4人が寝てて
大抜:BOφWYが!?
土屋:上が氷室、布袋で、下が松井、まこっちゃんだったかな…? で、真ん中の板の間が俺、みたいな(笑)。関西も思い出がいっぱいありますよ
大抜:それは聞きたいですね〜。
土屋:大阪もね、やんちゃな仲間たちがたくさんいたんで(笑)、その仲間が選んでくれた小屋でみんなでイベントやって。また京都に帰るわけですよ。大阪のほうが宿代が高かったというか…破格に安いんですよ! 六角ハウスが。だから神戸に行くときも大阪に行くときも、京都のそこが寝ぐらですよね。でも、当時はファンの方でちょっと暴走族だったりとか、ちょっとヤンキーの姉ちゃんだったりが(笑)追っかけてくるわけですよ。ハイエースで飛ばすんだけどボロいからスピード出ないんで、必死こいてまくわけです。カッコつけてまいてるんじゃないんですよ。泊まってるとこ見られたくないからで(笑)。一生懸命まいた覚えがありますね
大抜:へ〜!
土屋:あと京都はね、その六角ハウスから歩いて3分くらいのとこに銭湯があるんですよ。隣においしいうどん屋さんがあってね。メンバーみんなと僕とでよくその銭湯に行きましたね。あるとき朝からゆっくり風呂入って昼前に出たら、修学旅行の集団と出会っちゃって。そしたら「お兄ちゃ〜ん!」って、パッと見たら布袋の妹が修学旅行で来てて(笑)
大抜:(爆笑)
土屋:布袋なんて隠れらんないじゃん、当時頭がピンクでデカいから(笑)。いかにロックっていうものが成熟していなかったか…これでもBOφWYにインディーズ時代ってないんです。初めからメジャーレーベルからデビューしてますから。レコード会社はお約束事だけはちゃんとしてくれたけど、味方はしてくれなかった。良くも悪くも自分たちでやってくしかない。ホントに強い意思を持ってないとダメでしたね。頼っても誰も何にもしてくれないから
大抜:結束力ってものすごいものがあったんじゃないですか?
土屋:作品が世に残って、20年後にこんな素敵な仕事もできるバンドになれたから言える訳ではなくね。当時からすごかったですよ。楽しかったですしね |
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大抜:タテ関係もしっかりしてるんですか?
土屋:やっぱ氷室が作ったバンドですし、「どうする?」ってときはヒムロックに聞きますね
大抜:布袋さんはどういう感じなんですか? 後輩としては従順であった?
土屋:彼が従順なわけがない!(笑) あんなやんちゃな後輩はいないでしょう(笑)。俺と氷室がいっしょの年で、布袋は1コ下で。でも、人が持ってないアンテナをいっぱい持ってましたよね。たくさんレコードも聴いていたし、音楽を取り囲む、例えばアートとか、ファッションとか、今で言うクロス・カルチャーみたいなものを、当時からすごく意識してましたね
大抜:ギタープレイにしてもやっぱりあれだけの幅広さっていうのは、それだけ音楽を聴いていないと表現できないものだと思いますしね。
土屋:元々彼は鍵盤もできるしね。でも当時ライブハウスに見にきてくれた業界の方に、「ギターとドラムを外せ」って言われたことがあるんですよ
大抜:えーっ!?
土屋:「ドラムは年いってるし、ギタリストはソロがないじゃないか! なんだあのギターは? 打楽器か?」って。「何言ってんだこのおっさん?」と思うじゃない?(笑) でも売れてからは「いやさすがだ。俺が元々思ってた通りだ」って。俺が売ったぐらいの勢いですから(笑)
大抜:実は布袋さんに3年くらい前にインタビューさせてもらったときに、BOφWY時代に業界のいわゆる先輩ギタリストたちにすごくいじめられたと。「お前はただギターを持って踊ってるだけだ。弾いてない」って言われて。でも逆に「じゃあお前もギター持って踊ってみせろよ」と言ったんだと。それぐらい当時布袋さんのプレイって、革命的でありながら異端だったんでしょうね。みんなの中で何なんだあのプレイは!?っていう。

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土屋:当時はまだ洋楽聴いてるほうがカッコいい時代なわけですよ。でも、いい意味でも悪い意味でも歌謡曲のメロディが身体に染み付いていて、だけどやっぱり洋楽にものすごい影響は受けてる。それをセグメント(=分割)する方法を、自分たちなりのやり方でしたんだと思うんです。そういうひとつひとつのプレイの形は、やっぱり新しかったと思いますよ。リズム隊だってそうですよ。デジタルがちょうど入ってきた時代…打ち込みってやつですね。“あれを肉体でやったらどうなるだろう?”って。当時ハンマービートだ、BOφWYビートだって言われましたけど…大変ですよ。松井なんかは全部ダウンピッキングなんで。機械だからできることを肉体でやっちゃうんだから(笑)。それなのに高橋まことはライブでもっと早くやっちゃう(笑)。なんてバンドなんだと
大抜:『“LAST GIGS” COMPLETE』も、そんなメンバー4人それぞれのショットも十分楽しめますしね。
土屋:これがバンドだぜっていうね |
大抜:ちょっと年齢不詳なバンドだなって感じもしますね。
土屋:不詳ですよね(笑)。俺もね、久しぶりにBOφWYの作品群を見たんですけど、結局6年間しか活動してないんですよね。当時20ぐらいから26、27なわけですよ。「この人幾つなんだろう?」って、見ながら思っちゃうんだよね(笑)。俺もこのプロジェクトの中の一員ではあるんだけど、こんなバンド今いないよなって、思っちゃいましたよね。今の時代にこのバンドがいたら、どうなってたのかなぁって
【20周年プロジェクト〜終焉】
大抜:今後、土屋さんはこのBOφWYに関連したプロジェクトをまだまだ続けていかれます?
土屋:いや、もうないでしょ
大抜:これがもうホントのラスト?
土屋:20周年ってとこで…オフィシャルとしてはもうないと思います。終了です。
大抜:土屋さんの中でもCOMPLETE?
土屋:うん、COMPLETE。メンバーも「もうこれでいいんじゃない?」っていうのがあるから。プロジェクトとしてCOMPLETEされた20周年の今年4月…これでラストかなと思います。成人式とかってことでもないんですけど、20周年ってなんか違うじゃない?
大抜:そうですよね。
土屋:ずっとずっと支持してくれてたオーディエンスにホントに感謝の気持ちでいっぱいだし、解散した後知ってくれた方にも、もう1回検証して欲しいし。むしろ今BOφWYを知らない人たちがBOφWYを見つけて手に取ったとき、“こういうバンドだったのか”っていう、その1枚があればちゃんと分かるようなものを残しておきたかったんですよ。やっぱりこれだけのバンドだから、それがスタッフとしてやっておかなきゃいけないことだと思ったんですよね。もっとこうして欲しいああして欲しいって、まだリクエストもくるし。でも悪いけど120%やり切った。それぐらいカッコいいからみんな見てよって思いますよね
大抜:是非、皆さんもこの『“LAST GIGS” COMPLETE』をチェックして頂きたいなと思います。ということで、今日はホントに嬉しい時間でした! 関西のトリビアも聞けて。今日は当時のBOφWYのマネージャーであり、現在は音楽プロデューサーとして活躍中の、土屋浩さんをゲストにお迎えしました。どうもありがとうございました!
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収録後の土屋浩氏(左)と大抜卓人氏 |
(プロフィール)
'81年に結成され、日本の音楽シーンの中で絶大的な人気を集めたロックバンド。人気絶頂期の'88年に解散した。解散時のメンバーは、氷室京介(vo)、布袋寅泰(g)、松井常松(b)、高橋まこと(ds)。数多くのミュージシャンからもリスペクトされている伝説のバンド。
(Release)
『"LAST GIGS" COMPLETE』
発売中
CD 3200円
TOCT-26540〜41
DVD 5800円
TOBF-5580 |
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アンコール全5曲を含めた未発表曲11曲が収録されているため、これまでになかった『"LAST GIGS"』の完全版となる作品。'88年4月5日の東京ドームにいた5万人だけが目撃することができたラストシーンが明らかになる。
【プレゼント】
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[締切] 5月7日(水) |
(4月8日更新) |