21世紀の骨のあるヤツ

伊達公子、野茂英雄、中田英寿など世界を舞台に戦う選手の出現でおおいに盛り上がった90年代のスポーツ界。21世紀まであと1年となった今、彼らのように大きくはばたく可能性を秘めた未来のスーパースターを直撃!

第17回

米倉加奈子(バドミントン)

米倉加奈子「マグレ、マグレ。全部いい方に回っただけですから」
 '98年12月に行われたアジア大会で金メダルを獲得した米倉は、照れくさそうにそう語った。日本バドミントン界では、湯木博江(現姓・新沼)以来28年ぶりの快挙。あの陣内貴美子でも獲得できなかったビッグタイトルだ。しかも、世界ランキング1位、中国の葉を準々決勝で破っての価値あるチャンピオン。「ヨネクラ」の名は、一躍世界に広まった。
「葉選手との準々決勝は、まさか勝てるとは思ってませんでした。第1セット、ラブ・ゲームでやられたので、『1本ちょうだい。お願い、1本でいいの』ってシャトルに頼んだぐらいですから」
 だが、そこからが米倉の真骨頂。敵の攻撃を拾いまくり、世界ランキング38位がついに大番狂わせを成し遂げた。
「バドミントンは、エースショットが速くなくても、拾って拾って、拾いまくれば勝てる競技」と言う米倉は、驚異的な粘り強さを発揮してアジアを制した。
 彼女の強さの秘密は、そればかりではない。「金メダルはマグレ」と言いながらも、アジア大会を振り返る彼女の話からは、いかに冷静に相手を分析し、状況に応じて作戦を組み換えていったかが伝わってくる。ポーカーフェイスを装いつつも、次第に焦れていく敵の表情を、米倉は見逃さなかった。1点ずつ積み重ね、少しずつ焦っていく顔をネット越しに確認しながら、勝利を確信していった。
 20歳そこそこにして、この粘り強さと冷静でしたたかな“目”。それらは、ケガに泣いた高校時代に培われたものだった。
 小学校3年生の時、「お姉ちゃんの真似をして」バドミントン・スクールに通い始めた米倉は、みるみるうちに才能を発揮。全国中学生大会で優勝すると、小島一夫監督(現・つくば国際大学監督)に誘われて茨城県の常総学院高に入学。2年生でインターハイ・ベスト8に入るが、3年生の選抜大会を前にアキレス腱を断裂。6ヵ月間、練習すらできない日々が続いた。
 エースでキャプテン。しかも、「個人戦で優勝するより、みんなで一緒に喜びあえるから、団体戦で優勝する方が楽しい」と話す彼女にとって、チームに迷惑をかけるのがどれほど辛いことだったか。
 そんな気持ちを見透かしたかのように、監督は米倉を監督席の後ろに座らせ続けた。
「みんなの練習を観察するのがお前の仕事だって、言われたんです。バドミントンは個人競技なんですけど、チームでやるもの。ひとりでできるわけじゃない。みんなの練習を見ていて、それがわかりました。両親がいて、小学校や中学校時代の監督がいて、小島監督や食事などの面倒を見てくれる奥さんがいて、チームメイトがいる。心配したり、応援してくれる人がいるから、私はプレイできるんだって気づいたんです。ケガが治ったら、もう一度がんばろう。どんなに苦しくても、諦めたりしちゃいけないなって、その時誓ったんです」
 監督の思惑通り、精神的に逞しく成長した米倉は、同時に観察眼も養った。ピンチに立たされた時の表情。ショットが決まらない焦りの顔色。審判の判定にいらつく仕種。そのひとつひとつをコートから離れた監督席の後ろから見続けた。米倉の武器は、自分を支えてくれる人たちへの感謝の気持ちから沸き上がる粘り強さと、ネット越しに敵の様子を伺い、ちょっとした仕種や表情から心理状態を見抜く眼力にある。
 バドミントンは、中国や韓国、インドネシアなど世界の強豪がアジアに集中するだけに、アジアチャンピオンの米倉に対してオリンピック金メダルの期待は高まっている。だが、その一方で世界の強豪たちは「打倒・米倉」に燃え、研究を重ねてくるだろう。それでも、米倉は拾って、拾って、拾いまくる。そして、敵が根負けした時、黄金に輝く金メダルを拾い上げるに違いない。

取材・文:宮崎俊哉
撮影:末石直義

プロフィール

●よねくらかなこ
'76年、東京都生まれ。166cm、55kg。常総学院高からつくば国際大に進み、現在は茨城トヨペット勤務。中学3年時に全国中学大会優勝。'96年から全日本学生選手権3連覇を果たした。'98年12月のアジア大会で金メダルを獲得した。今年3月のスウェーデンオープンバドミントン選手権大会で優勝を飾った。

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