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演劇・ミュージカル ひょうご舞台芸術「獅子を飼う─利休と秀吉―」
ひょうご舞台芸術「獅子を飼う─利休と秀吉―」
 
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豊臣秀吉が初めて実現した、全国統一。農民の子として生まれながら、最高位の関白にまで登りつめた秀吉には、精神的に弱った時、心が荒れた時、迷った時、いつも頼りにしてきたひとりの男がいた。それが千利休、今も残る茶道を完成させた天才茶人である。しかし、天下統一してなお、将来への不安が濃くなる秀吉の苦悩をよそに、利休の名声はひとり歩きするようになっていく。やがて秀吉は、自分の人生にとって唯一無二の存在だった利休に自害の命令を下す。多くの研究者が諸説を繰り広げても答えが出ないほど、理不尽で不可解な秀吉の行動。しかし利休は少しも抵抗することなく、その決定に従った。ふたりの間にあった静かで深い愛憎とは? 獅子=およそ手なずけられないもの、を飼っていたのは、秀吉か、利休か? 92年に初演され、絶賛されたこの作品が、利休役に平幹二朗、秀吉役に坂東三津五郎という同じキャストで蘇る。

≪この舞台のツボ [1] オトコと茶道≫

この作品のベースにあるのは、芸術と政治。「芸術の天才と、政治の天才は、共存できるのか」であり、「もし政治(芸術)の世界に、芸術(政治)が介入したら?」などのテーマが全体を通して散らばっている。その芸術が茶道なのだが、現代で「茶道を習っている」「お茶をたしなむ」といえば、ほとんどが女性の言葉。しかし日本における茶道は、商人から武士へと広まっていった、完全に男性──それも社会的に成功した男性限定──のたしなみであり、茶会は男たちのサロンだったのだ。16世紀末、大阪(当時は大坂)の一大貿易都市・堺で、有力商人たちの間で大流行した茶の湯は、やがて大名の間にも広まっていく。しかし当初は、高価な茶道具を集めることなどが目的のひとつで、現在のわびさび=渋い=の世界観とはかけ離れたものだった。

≪この舞台のツボ [2] 利休のジェットコースター人生≫

一代で平民から身を興し、天下統一を果たした豊臣秀吉のドラマチックな人生は、多くのドラマや映画、小説で採り上げられ、教科書にも載っているので、ここでは利休の人生をフォローしたい。1522年に、堺の裕福な商人の子として生まれた利休は、祖父が八代将軍・足利義政に茶の湯を教えていたこともあり、幼い頃から茶に親しんでいた。やがて、信長の主君である織田信長にその腕前を認められ、仕えるように。その後、本能寺の変で信長が討たれ、その復讐を果たした豊臣秀吉に取り立てられるようになる。秀吉の利休への入れ込み方は格別で、大坂城内に茶室を開き、利休には3000石を与えた。それだけでなく、公の仕事は息子に、プライベートに関してはすべて利休に意見を聞くようになるほどの入れ込み方だった。やがて利休は、かねてから学んでいた“わび学(質素、簡素の中に究極の豊かさ、美を見出す思想)”を茶の湯で完成させていき、それが日本の茶道として今も残っている。記録に残る利休最後の茶会は、たったひとりの客人のために開いたものだった。そしてその相手は、若き徳川家康だったという。

≪この舞台のツボ [3] なぜ、彼は彼を殺したか?≫

はじめにも書いたように、秀吉が手のひらを返したように利休を嫌い、自害まで命じた理由について、本当のところはわかっていない。その“歴史の空白”は“歴史のロマン”となり、多くの研究者、作家の好奇心を刺激してきた。これまで言われてきた主な理由には、次のようなものがある。「天下統一まで果たした秀吉は、自分はあとは落ちていくだけだと思い込み、人々の尊敬を集める利休に嫉妬した」「利休が政治に介入し過ぎるようになり、秀吉の不評を買った」「権限が強くなる利休に、秀吉の側近が嫉妬して、秀吉に忠告した」「ふたりの茶の湯の考え方にズレが生じた」などなど──。そのどれが真実に近いか、あるいは、新しい発見があるか。それはぜひこの舞台を観て、自分で確かめてほしい。



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