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演劇・ミュージカル
服部有吉&首藤康之 パートナーシップ・プロジェクト2006
「Homo Science/ゴーシュ」
服部有吉&首藤康之 パートナーシップ・プロジェクト2006写真

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服部有吉と首藤康之の共通点は、植物的な美しさを持つところにある。獣のような肉感性ではなく、鉱物のような無機性でもない。静かに太陽の光を浴びながら、まっすぐに茎を伸ばす強い命。そのナチュラルなみずみずしさが、観客に爽やかな感動を与える。この二人のダンサーが今夏はじめて手を組み『服部有吉&首藤康之パートナーシップ・プロジェクト2006』と題して新たな舞台創作に挑む。出会ったときから「波長が会う」と感じられたという二人。重厚な古典大作バレエや、頭でっかちなコンテンポラリー・ダンスとは一味違う、スッと飲み下せて何かが残る。そんな爽やかな総合芸術を作り上げてくれるに違いない。


≪攻略ポイント その1 服部有吉が持つ“印象派的”な感性≫

 服部の作品を最初に観たのは、一昨年の『盤上の敵』。あの複雑な北村薫の心理ミステリーをどうダンスに仕立てるのかと、やや不安に思いながらも劇場に足を運ぶと、そこには、小説のエッセンスを見事に抽出した現代バレエが立ち現れていた。ストーリーラインや役柄のディテールをすべて説明するわけではなく。読後に服部の脳内に残溜した「体温や空気感」のみを的確に活写。とはいえ、それが哲学的すぎる抽象論に陥るのではなく。伝わるべき情報はきちんと伝わってくる。「服部有吉の作品は印象派絵画だ」。そのとき、ふとそう思ってしまった。モネの『日傘をさす女』は一目観ただけで、その女性がどんな人物なのか伝わってくる。それと同じように服部の作品も、パッと観た瞬間にすべてが掴めるような充足感を与えてくれるのだ。しかも服部の振り付けは、娯楽性にも優れているのが素晴らしい。彼の祖父である大作曲家・服部良一がそうであったように。肩肘張らぬ軽やかな小品を、粋な遊び心で満たすことができるのだ。
 そんな彼が、在籍するハンブルグ・バレエ団の正式な振付家としてデビューを果たしたのが昨年6月。そこでも大成功を収めたものの、来シーズンには古巣のハンブルグを去り、カナダのアルバータ・バレエに移籍するという。こうしてますます活躍の場を広げるなか、今回の日本公演ではどんな作品を生み出してくれるのか。ロボット工場で起る誤動作の連鎖をテーマにした『Homo Science』と、宮沢賢治の小説を題材にとる『ゴーシュ』。「誉められるほど不安になる。自意識過剰にならないよう自分を戒める。」と語る、謙虚で柔和な天才振付家の萌芽を、今こそ目の当たりにしたい。


≪攻略ポイント その2 首藤康之のアクターとしての才能≫

 いうまでもなく、首藤康之は日本が誇るダンサーの一人。だが、ターンやジャンプや超絶技巧の応酬といった飛び抜けた技術力が彼の売りではない。テクニシャンがもてはやされる日本バレエ界においては珍しく、彼は演技の部分で最高位の賛辞を勝ち得ているダンサーなのだ。この演技という言葉は“存在感”と置き換えてもいい。服部も、東京バレエ団の『M』を初めてハンブルグで観たときに「首藤さんの際立つ存在感に目を奪われた。」と語っていたが。彼はその役柄に「なりきろうとする」のではなく、ただそこにその役として「いる」ことができるのだ。そしてその有無を言わさぬ説得力が、首藤を首藤たらしめている。
 だからこそ近年では、ダンス力よりも演技力重視の作品――マシュー・ボーン版『白鳥の湖』、ストレートプレイ『R&J』、ニジンスキーの『牧神の午後』――などへの出演が相次いでいる。彼にとってみれば、身体を使うのも言葉を使うのも「舞台上で演技をする」という意味においては同じことなのだろう。
 そんな彼が今回、服部の作品に初挑戦。主に第一部の『Homo Science』での活躍になるが。ここで彼は得意の感情表現を封じられることになる。つまりロボットとして「顔の表情を殺して」踊ることになるのだ。「このところ演劇的に表情を“出す”ほうの表現が多かったので。それを殺したところで…、どれだけ身体で表現できるかチャレンジです。」と首藤自身も語ってくれた。シアターコクーンという密な空間で、首藤の身体表現を存分に堪能したい。


文:岩城京子





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