@ぴあメールマガジン クラシック アーティスト・リレー・エッセイ〜5線紙にのせて〜
第14小節 ピアニスト:舘野泉
2005/01/05
原曲と編曲の狭間で
左手での室内楽演奏

 クリスマスのヘルシンキは雪である。静かに降りつむ雪は、なんとはなしに優しく甘美なヴァイオリンの奏楽を連想させる。加藤知子さんからバトンを受けて、これを書いている。その加藤さんに頼まれて、一月末にご一緒に室内楽をすることになった。曲はフランツ・シュミットのピアノ五重奏である。実はこの作品、第一次世界大戦に従軍して右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィットゲンシュタインの委嘱より作曲されたもの。彼はラヴェルに傑作「左手のためのピアノ協奏曲」を委嘱したことで音楽史に名を留めている。当然、シュミットの作品もピアノのパートは左手のために書かれている。

 私は三年前に脳溢血で倒れ、以来右半身不随の身である。だが、一年ほど前から左手で奏でることを見出して、その世界の豊かさに魅せられ、ステージへの復帰も果たした。
左手だけで演奏というのは大方の人が思うように不自由で不便なものではない。両手による奏楽とまったく同じように、美しく溢れる史上を弾きあらわせるのである。また、強くダイナミックで劇的な表情にも富んでいる。それどころか、もしかしたら左手のみで演奏することによって得られる、無駄を排した強く深い表現が得られると思うことさえある。

 だが、困ったこともある。たとえばこんど演奏する予定のシュミットの作品では、左手のために書かれたオリジナルの楽譜が見付らないことだ。それどころか、ドイツの出版社によると、オリジナルの譜は出版されたことさえないという。楽譜はある。左手用が両手用に編曲されたものである。私の手元にあるのがそれで、現在、両手用の編曲から左手用の元の姿を探り当てて、弾けるようにする作業を続けているが、かなり絶望的な気持ちに駆られるのを如何ともしがたい。
この曲のオリジナル版によりCD化されたものを聴いたことがある。素晴らしい作品、そして見事な演奏であった。もう一度問いたい。何故、それを両手用に編曲しなおす必要があったのかと。

≫次回は…ピアニストの志村泉さんです。
舘野泉 写真

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■ピアニスト 舘野泉 プロフィール
1936年東京生まれ。'60年東京芸術大学を首席で卒業。'64年よりヘルシンキ在住。'68年メシアン・コンクー ル第2位。同年よりフィンランド国立音楽院シベリウス・アカデミーの教授をつとめる。'81年以降、フィンランド政府の終身芸術家給与を受けて演奏生活に専念し、今日にいたる。'96年日本と諸外国との友好親善への貢献に対し、外務大臣表彰受賞。
これまでに、日本と北欧5カ国をはじめ、欧米、豪州、ロシア、アジア諸国、中近東の各国で3000回を超えるコンサートをおこない、その温かく、人間味あふれる演奏によって、世界のあらゆる地域の聴衆に深い感動を与えている。多彩なレパートリーを誇り、持ち前の情熱的で美しい音色を生かした演奏は音楽への愛情で溢れている。
リリースされているCDはすでに100枚に近く、いずれのアルバムも世界中の、幅広い層の聴衆の熱い支持をえてる。
純度の高い、透明な抒情を紡ぎだす、この孤高の鍵盤詩人は、2001年に演奏生活40周年を迎え、それを記念して各地でリサイタルを行ったが、その翌年、脳溢血で倒れ右半身不随となる。2年半に及ぶ苦闘の日々を不屈の精神でのりきって、左手による演奏会で復帰をはたす。命の水脈をたどるようにして取り組んだ左手による作品は、静かに燃える愛情に裏打ちされ、聴く人の心に忘れがたい刻印を残す。
日本の、クラシックのアーティストとしては初めての、そして最も長続きしている「ファンクラブ」を各地に持つ。
福島県原町市民文化会館名誉館長。オウルンサロ(フィンランド)音楽祭音楽監督。
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